こんちには、コメじゅです。
まだまだペットロスの真っただ中、右往左往しています。
もう二か月ちょっと、まだ二か月ちょっと。
家族である猫のメイちゃんをペット霊園で火葬して、お骨になったメイちゃんを見てまたもや涙が。
息を引き取った瞬間、冷たくなった身体、硬直する身体、そして骨になった姿。
変わってゆく姿を見ながら少しずつ受け入れていくんだなぁと。
悲しみの感情を、そのまま受け入れて、涙も流れるままに夫婦で思いっきり苦しい気持ちを吐き出せたと思う。
それでも、この喪失感!メイちゃんに会いたい気持ち、会いたいのに会えない辛さ。
あんなに小さい身体なのに、なんという存在感だったのでしょう。
部屋の中のどこかに居てくれるという安心感がなくなり、家に帰って来た時にお出迎えしてくれることもないというガッカリ感。
あまりにもメンタルが病んでしまうということで、火葬を終えた次の日、夫婦で部屋の模様替えを強行。
リビングのソファ、ラグ、クッション、猫のケージなどの猫用品のほとんどを処分。
私がソファに残る爪のひっかき傷や、メイの毛などに涙するたびに、夫が、
「それはメイじゃないからね、執着っていうの。メイはそこには居ないからね。」
と諫められ、
床に落ちているメイの爪を拾って、
「メイちゃん…」とまた干渉に浸っていると、
夫が、
「それは執着だよ、例えばコメじゅが死んじゃったとして、俺がコメじゅの落ちていた毛とか拾って、コメじゅ~!って後生大事に持ってたらどう思う?」
私「それって、ちょっと嫌かも…それ私じゃないし。せめて写真とかにして欲しい。」
夫「そうでしょう?そんなところに執着しないの。それは<我=エゴ>になっちゃうんだよ。」
私「そうだね、なんだかメイちゃんの幻想を強く握り閉めてる感じがする。手を開いて手放すのがいいよね。私も、メイちゃんも自由にしないとね。」
私達とメイちゃんとの物語は終わった。その本は大切に心の本棚にしまって、新しい物語が始まったことを受け入れよう。きっとまた、運命の出会いが待っているんじゃないかな。
今まで幸せだった。でも、もうメイちゃんが居ないのだから幸せじゃない、という考え方になったら嫌だ。
過去にとらわれ過ぎると、これからは、ずっと幸せじゃないってことになってしまうのも困る。
自分の生き方の癖として過去に囚われすぎるってわかってはいたのだけれど、実際にそれを手放そうとすると抵抗がすごい。
メイちゃんとの甘い過去に浸っていたくなってしまう。もう居ないのに縋り付いてしまうんだなぁ。気を付けよう。
そのためにも強制的に環境を変えるのも、私達にとっては一つの有効な方法だと思う。弱い自分の心が過去に引っ張られないように。
手放し方はひとそれぞれなんだろうなぁ。
家の中を片付け、車に荷物を積んで、地域の環境センターに粗大ごみを持ち込んでそのまま処分してもらうことに。
初めて利用したけれど、自分達の手で荷台から物を放り込むという流れだった。
思い出の品を自分たちの手で文字通り手放せたのは良かったのかもしれない。
ほぼ強制的に気持ちの区切りをつけて、その後、必要な家具などを新調した。
家に帰ると、玄関の前にめっちゃ大きな蛾が死んでいてびっくり!
絶対に見過ごせないくらい大きい。
1月なのにどうして蛾が?しかもここに?
私達はきっとメイちゃんの悪戯なんだろうなって思って笑った。
向こうの世界で、メイちゃんは言ってるんだろうな、
「それは<蛾=我=エゴ>なんよ!」
お読みいただきありがとうございました。